ベトナム展報告

「京都工芸の精華-2013」ベトナム展

①「作家集団 工芸京都」について

「作家集団 工芸京都」(以下、工芸京都という)は、人間にとってもっとも身近な美術である工芸で、世界のトップレベルにありながら、それほど広く知られていない京都の工芸を世界中に発信し、各地の人々と交流し、生活文化を高めようと言う目的で、2006年に結成された。
 結成のきっかけは、2008年が日仏交流150年、京都・パリ友情盟約都市提携50年に当たるのを記念して、京都の工芸をフランスで展示して、文化交流に新しい糸口を作ったらどうかという声が、かなりの数の京都市民から、当時「京都日仏協会」の常任理事だった塚本樹のもとに寄せられたことによる。これは同協会が企画・主催しての開催を示唆したものだったが、同協会にはそのような事を行う意欲も能力も無かった。
しかし、アイディア自体はいつか誰かがやるべきことなので、塚本は同協会の会員で海外での作品発表に熱心だった伊砂利彦(故人、染色作家、当時新匠工芸会代表)との間で、工芸作家自身で出来ないかという案が生まれ、塚本が朝日新聞京都支局(現在は総局)勤務で美術を担当していた頃から懇意だった今井政之(陶芸作家、文化功労者、芸術院会員、日展顧問=当時常務理事)、鈴木雅也(故人、漆芸作家、当時日展評議員・京都工芸美術作家協会理事長)、村山明(木工作家、重要無形文化財保持者、日本工芸会理事)にも相談し、更に河合誓徳(個人、陶芸作家、芸術院会員、当時日展顧問)と加藤忠雄(金工作家、日本工芸会正会員)を加えた7人が発起人になり、結成の趣旨に協賛する作家を募り、18人の作家と事務局長として塚本を加えた19人で発足した。
2008年11月にはパリ市1区のEspace Bertin Poiréeで展覧会を開き、経済理由によるPRの不足にもかかわらず、18日で約2,000人の来観者があり、感想を書いてもらったノートには賛辞で埋められた。来観者は口コミによる一般市民が圧倒的だった。
その後、代表だった伊砂利彦と河合誓徳の死去などがあって、次回の活動計画がなかなか立たず、また企画・運営の自由を確保しようと、できる限り行政や特定企業の経済支援を避けるよう心がけているため、開催資金の積み立てに時間を要するので、2009~10年は対外的には休眠状態で過した、
2011年になって2013年に信州高遠美術館と京都・中信美術館の主催による展覧会開催が計画され、同時に同年は日本とベトナムとの外交関係樹立40年で「日越(ベトナム)友好年」として、在ベトナム日本大使館は記念事業を募集したので、これに応じる事とし、信州・京都と併せて一挙に3展覧会を開く事になった。
「工芸京都」は、各作家の所属会派や創作技法の違いを超越した、作家の同志的結合であり、定期的に展覧会を開くと言うようなことはない。同人全員が開催の必要性を認めた場合にのみ、開催する。会則のようなものは特に無く、活動方針・費用負担等は必要のある度に、全て合議で決定する。2014年1月1日現在の同人は陶芸8、染織6、漆芸4、金工3、木工2、ガラス1、事務局1の25人である。事務局は必要に応じて各種作業を同人が分担し、局長が取りまとめる。

②   ベトナム展の発端

工芸京都の存在理由が、京都文化の精華とも言うべき工芸の情報発信であるのだから、展覧会の開催は必須で、パリ展終了して1年たった頃から次回開催の話が持ち上がった。しかし、とにかくやれば良いというものではない。何よりも“天の時”が必要だ。経済面から言えば資金積み立てに時間もかかる。そこで、開催時期の目安を2012年初頭とし、開催候補地探しを始めた。そして先ず浮かんだのがタイだった。タイは全国的にシルクとその加工品が有名だが、北部のチェンマイを中心に陶器・漆器・銀器・木工などの伝統工芸が盛んなことは知られているが、美術工芸はほとんど紹介されていない。お互いに制作環境を知り、交流を深めることは有益であることは論を待たない。そして同人の笹井史恵(京都市立芸大専任講師)はタイ留学経験があり、現地事情に通じ人脈もあるので、有力候補地となった。そこでタイに就いての基礎データの収集をはじめ、開催可能な施設や予算の調査を始めた。
ところが2011年7月に、バンコクで大洪水が発生して、復旧のメドも立たないのでタイ開催案は“水没”した。そして浮上したのがベトナム案であった。全く落語かジョークみたいな話であるが、たまたま塚本が朝日新聞在勤時の同僚にこの話をしたところ、その同僚は大阪万博前に水前寺清子が歌ってヒットした歌に引っ掛けて「バンコクがだめならベトナムがあるさ……」(原作は“東京でだめなら名古屋があるさ”)と言った。居酒屋で微醺を帯びての会話で、言った方は何の気もなかったのだが、聞く方にとっては目を開かれる思いであった。ベトナムは対米戦争やカンボジアとの紛争、ボートピールなど殺伐とした印象が強いが、かつて朱印船などの交易が盛んで、京都の清水寺には交易の様子を描く絵馬が奉納されている。また輸入された陶器は〈コーチ=交址〉と呼ばれ珍重され、京都の陶芸に影響を与えもしている。全国的に工芸が盛んだとも言う。交流のパートナーとしては恰好であり、現地での京都工芸への反響を知ることは、京都の工芸の将来のためにも有益であることは間違いない。それまで気がつかなかったのが迂闊ともいえる。そこで全同人にベトナム開催に就いての賛否を問うたところ、25人中に積極推進8、異議なし15、疑問あり2、無回答1という結果だった。そこで改めてベトナムに就いて勉強したところ、20世紀末から日本の商工業進出はめざましい。一方で文化交流は小規模・単発的であり、双方の文化向上に資しているようなケースは極めて稀である事が分った。
更に在ベトナム日本大使館のホームページで、2013年が日本とベトナムが外交関係を結んで40年で、これを記念して両国政府は同年を「日越友好年」(越は越南の略で、ベトナムの古い中国式呼称)として、各種の記念事業を企画・募集している事が分った。そこで「工芸京都」としては、この記念事業に参加することを決めた。

③   会期・会場の決定まで

   展覧会を開催するのに最も大事なことは、会場の確保である。どんな立派な、有意義な展覧会を企画しても、会場を確保できなければ開催できない。開催時期を展示施設の都合に調整できても、開催場所が展示期間の都合に合わせることはできない。たまたま展覧会の規模や内容にふさわしい会場があればよいが、世界中の美術館は公・市立をとわず少なくとも2~3年先までのスケジュールはほぼ決っている。また一般に賃貸する美術館は、新国立美術館や京都市美術館のようないくつかの例外を除けば、1~2の展示室を短期間、主に有力美術団体か地元グループ展に貸すのが精々で、しかも賃借料は高額だ。
まず手がけたベトナムの美術展示施設事情調査でも、ほぼ日本と同じような状況であることが分った。そして“美術館”と名づく施設は首都ハノイでは「ベトナム美術館」(Vietnam Fine-Arts Museum)だけである事も分った。
この美術館は国立である。そして古代から現代までのベトナム美術を常時陳列している。このような美術館は世界中何処でも、一般に賃貸することはほとんど無い。その事情は国立東京近代美術館でも国立西洋美術館でも分る。そこで工芸京都は、大規模な私設ギャラリーまたは京都で言うならば〈みやこめっせ〉のような展示施設がないかを探った。
このような調査に頼ったのはインターネットであった。人づてに在日ベトナム大使館領事に尋ねたところ、ハノイの「プレスセンター」なる機関に問い合わせるようにと言う示唆があったが、同センターに照会しても何の反応もなかった。その他、協力的と思われる機関・個人を見出すのは難しく、webに頼らざるを得なかった。その結果、ギャラリーに25人の50点の作品を陳列できると思われるものはなく、公共のホールのようなものでも展覧会開催が可能かどうかは不明だった。そこで、ハノイ芸術大学に協力を求め、大学の施設を使わせてもらう事を考えた。大学のアウトラインは分ったが、交渉を始めるに当たって難関は言葉であった。もちろん工芸京都にベトナム語が分るものはいない。翻訳を外注すれば多大の費用と時間を要する。ベトナム人で英語を解する者は少ないと言うことは、以前から聞いていた。大学長に手紙を出したにせよ、こちらの意思と希望が正確に迅速に達するか疑問だ。
このようにして、会場探しは2011年10月まで進捗はなかったが、11月になって同人・小泉武寛に、ハノイ在住のNPO法人東南アジア埋蔵文化財保護基金代表の考古学者・西村昌也から「力になりたい」との申し出があった。小泉はNHKの教養番組の銅鐸復原や奈良・東大寺大仏鋳造の再現などの番組に出演して知られる金工作家であるが、かつて西村から東南アジアで出土した銅器の製造方法に就いて教えを乞われた事があり、その縁で会場探しの手助けを依頼していたもの。
2012年5月に西村が一時帰国した際に、小泉と塚本が会談し、ベトナム美術館の別館の部屋の借用は可能であり、紹介の労をとるとともに、広報や図録発行に協力する旨の確約を得た。(同氏は準備進行中の2013年6月9日、ハノイ東部バクニン省で乗っていたバイクの事故でなくなられた。この場で深い感謝と哀悼の意を表したい)。
西村は帰国後間も無く、ベトナム美術館の別館2室を11月11日から23日まで借用可能と言う知らせがもたらされた。早速仮押さえしてもらい、会場問題は解決した。全くラッキーだったと言うことだが、同時に現状においてはベトナムとの一般市民の文化交流は、個人対個人の協力で行われる以外の方法は、ほとんどないと言ってよいようだということが分った。

④   現地調査

   会期・会場が決って、具体的な展覧会準備を始めたが、その中でも最重要なのは現地の環境・事情を把握する事である。例えば展示室の設備はどうなっているか、美術館が側の協力態勢はどの程度か、美術館のロケーションはどのようなものかetc。そこで、現地の雨季が終った10月31日から4日間、小泉と塚本がハノイに入り、諸般の調査を行った。
   まず、ベトナム学の権威・富田健次大阪大学教授(現・名誉教授)の紹介で、ハノイで映像関係の仕事をしている女性に会い、ベトナムの美術環境、PR手段の事情、市民の生活状況などを取材し、次いで西村に伴われてベトナム美術館を訪問、約1時間にわたって館長・学芸員と展覧会の規模や内容の説明、展示用器材の準備、セキュリティ問題、動員方法などに就いて話し合い、会場となる部屋を検分した。さらに、海外交流基金で支援を要請した。
   会場は別館1階の約400平方メートルの矩形の部屋で、中央に両サイドが開いている間仕切りがあり、大きさは適当で照明も問題ないが、展示台や展示ケースはなく、自前で準備しなくてはならない事が分った。
   その他、宿泊・交通事情や各種施設の所在地などを調べて、開催に自信を持つことが出来た。

⑤   開催要項の決定

現地調査を終了して、その報告をもとに2013年1月の全員集会で開催要項を決定した。同時に実行委員会を立ち上げ、4部門の専門小委員会を発足させた。実行委員長には村山明(重要無形文化財保持者)が選ばれた。展覧会を充実させるためには、同人が一致団結して、各種の作業を分担して行うのが理想だが、高齢はじめ様々な事情で活発に動けない人もいる。そこで総務2人、渉外2人、運輸・展示3人、広報3人、会計2人の委員を選出して、活動をリードする事にしたものである。事務局は各小委員会のバックアップと、対外交機関への連絡、渡航計画を担当した。開催要項は特に取り立てて説明を要するようなことは含まれていない。内容は別紙を参照していただきたい。展覧会の全体像はおおよそ理解できると思う。

⑥   各種の準備活動

   パリ展では、集団が発足して間もなく、同人の顔ぶれも固定していなかったので、事務局が一手で担当したが、2006年11月から2008年11月まで2年の準備期間があったが、今回は10ヶ月しかない。小委員会の設置は必須で、発足して即時フル回転しなければならなかった。しかし、それぞれ作品制作に勢力を集中させねばならず、また不慣れな作業なので効率は必ずしも良くなかったが、各委員はベストを尽くした。

    各小委員会の活動は下記のようなものであった。

《総務》各小委員会の活動の取りまとめ。   

《渉外》各種文化財団への助成申請と、外務省はじめ行政機関、マスコミなどのへの後援申請を担当。結果としては、助成は日本ではどの財団からも受けられなかった。その理由として、同人の顔ぶれから見て集団はリッチだと判断されたのであろうと“解説”してくれた“自称事情通”もいたが、前述のように「工芸京都」は原則として自力で経費を負担するのだから、決してリッチではない。今回の展覧会も国際交流基金の助成があり、ベトナムの物価が安かったため救われた。一方でアベノミクスとやらで円安となり、予算が2割ほど目減りした。

べトナム美術館との契約書交換などの交渉には、英語に堪能な徳力竜生が、全てメールで行った。契約書は2013年4月段階で事務局が会期・会場賃貸料・会場管理・相互の義務と責任の範囲を軸に邦文と英文で作り、西村に託してあったが、西村の死後は徳力と美術館との間で調整が行われ、10月に交換された。

《運輸・陳列》パリ展でもは多額の輸送費が必要だったが、それは佐川急便グループのご好意で、メセナとして無料で運んでいただいた。今回もパリよりは近い場所での開催とはいえ、輸送コストが予算の大半を占める事が予想された。いくつかの輸送会社から見積を取り、できるかぎりディスカウントしてくれるところに決定するつもりでいたが、在大阪ベトナム総領事館の領事から鴻池運輸を推薦された。ここと交渉した結果、希望する価格に近い数字が示されたので、委託することになった。ところが、ベトナム美術館には陳列開始まで作品を保管しておく設備がほとんどないのと同然で、ハノイで通関して直ちに美術館に持ち込むわけには行かない。また陳列日にあわせて通関させることは不可能である。税関のストックヤードで保管してもらうと多額の経費がかかる。
 この問題を解決してくれたのが「日本サルベージ・サービス」(京都市南区)で、現地法人であるAMS(Asia Machinery Solution Vietnam)事務所の一画で預かってもらう事となった。この支援は経済面ばかりでなく、作品の保全の面からも有難いものだった。
陳列は開会の前日、村山委員長はじめ同人6人で行われた。展示台は会場の長方形のもの4基と島台2基、ガラスケース6台を国際交流基金の世話で現地製作し、長方形の台は壁面に接して設置し、ガラスケースも長方形の台の隙間に壁に接して配置した。この配置計画は小泉のプランをもとにして行われたが、どの作品を何処に置くかは現場で“試行錯誤的”に行われた。平面作品を壁面に垂らすのも、すべた同人の手で行われた。現地人の助手の雇用も考えられたが、言葉の壁による意思疎通が難しいので使わなかった。それでも手不足と言うことはなかった。これは、この展覧会に先立って信州高遠美術館と中信美術館で行われた、同一作品を展示した展覧会での経験が役立ったためである。
撤収には閉会日である23日の2日前に同人4人がハノイ入りして24日に行った。中信展撤収の際に撮影した写真を参考に順調に行われ、梱包終了と同時に鴻池運輸に引き継がれた。12月7日に全作品無事に清水焼団地(京都市山科区)に返送され、各人が受け取った。自分の工房まで配達してもらう事を省いたため、相当額の経費をカットできた。

《広報》ハノイでの広報は、手段としては日本とさして変わらないが、ポスターは掲示可能な場所が少ない。チラシは知り合いの店においてもらうぐらいしか出来ない。新聞広告は効果が期待薄と現地の人意見があり断念した。TVCMは商業放送があるか、あったとしてもどのようにしたらオンエアできるかのノウハウに乏しく、現地の人に聞いてもベトナム総領事館に訪ねても、効果的な回答は得られなかった。在住邦人向きには在越日本大使館のホームページと、現地日本語雑誌「SKETCH」に掲載されたが、ベトナム人向きにはとにかくチラシ多数をピンポイント的に送り、そこを基点にばら撒いてもらう――後は口コミに頼るのが有効という事になり、会期が迫ってからではあるが、チラシの版下をPDFで現地へ送り、国際交流基金などを通じて、適当に配布してもらった。

   図録は主に徳力竜生が編集を担当、A4変形60ページ2,000部を現地印刷させた。コンテンツは代表挨拶、衆議院議長・伊吹文明のメッセージ、塚本(美術史学会会員)の京都の工芸に就いての概説的なエッセー、各同人の作品写真、経歴、工芸に対する一言、顔写真で、記事はベトナム語と英語を併記した。

配布はより広範囲の人たちに京都と日本の工芸を知ってもらうため、原則的に来場した希望者に1部ずつ無料で配ったが、特に無料贈呈を告知しなかったので、実配布数は1,000余部だった。

《会計》前述のように、経費はできる限り自己負担するようにするため、全同人は2011年半ばから毎月一定額を積み立ててきた。自己負担にこだわる理由は、“私的”な事業に税金を使うのは、納税者から賛同・理解が示されない限り、潔しとしないからである(一般的に「行政は文化事業を積極的に支援すべきだ」という意見があるが“私的”な個別事業は自己責任で行われるべきだ)。

    

しかし、仮に同人が毎月5,000円を積み立てたとしても18ヶ月で2,340,000円にしかならない。パリ展の経験からすると半額に足りない。また、先行する信州展・中信展にも少々の経費が必要だ。そこで、超緊縮予算を組み図録・チラシのレイアウトや原稿(文字・写真)のPC入力やレイアウトは自ら行い、印刷と文のベトナム語訳はコストの安いベトナムに発注するなどした。
予算の支出費目の主なものは、会場借用料・同設営費、作品の輸送費、図録製作費、西村夫妻の活動実費と謝礼など現地人件費、オープニング・レセプション費用で、総額は約3,100,000円となった。積み立てだけでは足りず、国際交流基金の援助と同人が集めた個人の協賛金を加えても140,000円の赤字が出た。これは2014年1月19日の全体会議で、会期中にハノイに行って陳列、交流、撤収の活動に参加しなかった者が分担して補填する事とした。なおハノイでの活動のため渡航したものの旅費は全額自己負担である。

《各種の申請》ベトナムで展覧会を開くには、内容の如何に関わらず「文化・スポーツ・観光省」の許可が必要である。申請は2012年末に西村に依頼してあったが、4月になってベトナム美術館経由(Eメール)で許可証が送られてきた。ところが驚いた事には全作品(50点)の題名と大きさ、技法・材質を記されたリストが付されていた。その中には出品作と違うものも混じっていた。どうしてこうしたことになったのか、西村が死去した現在では確かめようがないが、思い当たることは運輸や展示台の製作発注や図録印刷などの参考のため、2012年11月現在の出品予定作リストを写真付きで西村と在大阪ベトナム総領事館に送ってあったが、そのうちのどちらかが使われたもののようである(総領事館と美術館の間に連絡は取られていたようだ)。出品作が確定したのは2013年3月早々である。西村と総領事館に“参考リスト”を渡した時点では、まだ製作中のものもあり、又長期旅行中や病気で出品作の登録が遅れた者もいた。そこで事務局がベトナムで関係する人たちの便宜を慮って、作品の性質が推定できる過去の作品をリストアップした“とりあえず”のものだった。日本では特殊な事情がない限り展覧会開催に行政の許可など要らないし、後援申請をするにも作品リストをつけることなど、皆無と断言はできないまでも、開催許可申請に展示作品リストを付す事など先ず考えられないので、「工芸京都」としては大変驚いた。

そこで心配されたのは、リストどおりの作品を展示しなければならないのかと言うことであった。各種情報をかき集めたところ、作品リストは展覧会開催許可申請には展示作品のリスト添付は必須であるには間違いないが、開催許可証さえ出れば後はうるさいことはないというものから、滅多にはないが万一リストと違う作品が展示されていることが発覚すると大変ややこしい事になるという意見まで様々であった。このとき西村はベトナム山岳部の調査に出かけており、連絡が取れなかった。ベトナム美術館に事情を説明して、訂正がきくものかどうか問い合わせたが、返事は無かった。もし訂正が必要なら、美術館としても訂正リストを送れという要求があるだろうと思っていたが、何も言って来ないのは“許可証さえあればOK”ということだろうと推測して、後に訂正リストを送ったが、美術館がどのような対応をしたかは不明。それでも展覧会は無事開催された。
文化交流にも、その国その地方部が特殊のルールや慣習があり、それらを細かいことまでよく調べておかなくては、思わぬトラブルになる事を改めて知らされた。今後の参考になった。しかし、許可申請をしなくてはならないと言う情報に、なぜ「作品リスト添付」と言う件がどこからも付加されなかったのだろう。向うでは常識だから、申請には黙っていてもリストが付いて来ると思っていたものか?
その他、後援や助成などの申請にも非常に手間がかかった。その理由は多種多様だが、後援名義を得るだけで実質的に何の利益も期待できない。言葉は悪いが“枯木も山の賑わい”式に申請したところがないでもない。名義後援は一種の慣習みたいな面もあり、今後は後援申請する際は、具体的利益に結びつく有形無形の支援方法を請求する事ができないものかと思う。今回は、通例なら真っ先にもお願いする新聞社には全くしなかった。理由は、ハノイに取材拠点を持つ新聞社は朝日新聞のみであり、それも常時ハノイで取材しているわけではないそうで、記事にしてもらう事は難しいと判断し、8社に及ぶ新聞・通信社に申請する手間を省いたもの。かつては新聞社の名義後援はそれなりの効果があったが、現在は精々“お付き合い”程度なのも大きな理由である。

⑦現地での活動 

   展覧会での活動の主なものはA=会場設営と陳列、B=撤収、C=広報のほかに、開催意義の最大なものの一つとしての現地の人々との交流がある。A~Cは一部または全部を、現地の人に任せることもできる。しかし、それには信頼できる複数のパートナーが必要だ。仕事の量が多く、内容も多岐に渡るので一人では捌ききれないからだ。しかし複数になると気を揃えて行動してもらえるかに疑問が残る。幸い2013年6月までは西村が、独特の人脈とノウハウを活かして重要作業の大部分を捌いてくれていたが、没後は「工芸京都」自体でやらなくてはならなかった。そこで、8月に小泉武寛と伯耆正一をハノイに派遣し、その後の作業の道筋をベトナム美術館、国際交流基金と相談した。その結果、交流基金が予定していた5,000ドルの助成による展示器材の発注を、美術館がオープニング・レセプションの世話をしてくれる以外は、工芸京都で行うことになった。
    11月5日にAMEから作品が無事到着したとの連絡があった。会場設営と陳列には今井政之、村山、塚本と角田誠治、それに今井・村山・角田夫人に交流を支援と観光を兼ねたボランティア5人が参加、計12人のパーティ(内部的にはミッションと呼んだ)となり、8日のベトナム航空ハノイ直行便VN301でKIXを出発した。航空券・ホテル・観光の手配は、東南アジア専門にして各種ボランティア活動の支援もしている、東京のPEACE IN TOURに依頼した。パーティ-が10人を超したことにより費用は未満より約25,000円安くなった各種の手配は懇切であった。
    1日遅れて伯耆、徳力、小林祥晃、村田好謙が加わった。観光なしで作業のためだけの渡越である。先発・パーティの今井、村山、塚本はホテル到着後、国際交流基金とAMEに御礼の表敬訪問をした。国際交流基金では現地在住の漆芸作家・安藤彩英子の個展の準備が始っていて、この方にも情報提供のお礼をした。安藤には開会式での通訳でもお世話になった。
    9日は、今井、塚本、角田を除く同人が会場に搬入される展示台などを点検・配置し、キャプションや建物の外に掲げる看板や挨拶のプレート、平面作品を吊るすためのテグスなどが揃っている事を確認した。村山は午前中はミッションの博物館見学に同行したが、午後は会場設営に立ち会った。
    この日の夜、同人とその同行夫人は深田駐ベトナム大使のご好意で、大使館公邸での晩餐会に招かれた。同大使は京都出身であり、図録にメッセージを寄せるようお願いした衆議院議長・伊吹文明とも知り合いであり、開会式には私的な任意団体の事業としては異例とも言える、開会式に出席して祝辞を述べていただいた。
    10日は、パーティはハノイ近郊の工芸村見学をしたが、村山・塚本は午後から陳列に参加した。
陳列に物理的な問題はなく、作品の色彩と材質と大きさを勘案しながら配列を決めた。ガラスケースも6台準備されていたが、盗難防止と手を触れられ汚されると重大なダメージを蒙るようなもの、さらには比較的衝撃に弱い作品を選んで収蔵した。しかし、作品にダメージが加えられたケースはなかった。それでも今井眞正の「水鳥香炉」の“煙突部”の筒を抜いてみる観客が多く、ヒヤヒヤさせられた。もちろん「手を触れるな」との注意は、会場の至る所に出されていたが、鑑賞者には構造や用法も興味が深く、手を出さずにはいられなかったのかも知れない。この日の実働時間は9時間であった。
開会式は11日午後6時から行われたが、約200人が参加、会場になった美術館正面玄関前には約100の椅子が準備されたが、参加者の半数は“立ちん坊”だった。その多くは、学生でハノイ芸術大学の学生よりも、むしろ各大学の日本語科の学生が多く「工芸を通じて日本を知りたい」と言うことで、同人らはかなり多数多様の質問を受けた。インヴィテーションは主に交流基金が配ってくれたもので、効果的であった。
式次第は美術館長の挨拶、深田大使の祝辞、今井代表の挨拶、伊吹議長と京都市長・角川大作のメッセージ披露と事務局長の「工芸京都」に就いての紹介があり、後はワインとスナックでの歓談になった。その内容は多岐にわたるので詳しく収録できないが、作品に対する驚きの声が圧倒できだった。
17日には、ハノイ在住日本人主催の行事に参加を兼ねて、小泉、片山雅美、加藤丈尋、笹井史恵が3~4日ハノイに滞在し、作品に異常はないか、一日の平均入場者数はどのぐらいかを調べた。また笹井は現地日本人の会主催で安藤との工芸対談をした。そしてお茶会に同人制作の茶碗などの道具を提供・寄贈した。
撤収には井隼慶人、志村光広、長尾紀壽、望月重延が赴き、数人の現地アルバイトの応援(単純作業)を得て、比較的短時間で終了し、即日帰国するはずだったが、当日(24日)は飛行機の座席が早くから満席になっていたため、1日余計に滞在せざるを得なかった。
伯耆、小林、徳力の3人は、開会式で紹介されたハノイ芸術大学教授の招きで12日午後、同大学を訪問、授業内容や設備を見学、日本の工芸と交流について意見を交換した。
片山・加藤は考古学者グエンザンハイ氏の案内で、NPO法人東南アジア埋蔵文化財保護基金の努力で建てられた、ハノイ郊外キムラン村の古陶器製造遺跡博物館を訪問、現地陶芸家と交流し、近くにある西村の墓に詣でた。

⑧   総括

  本展覧会は日越間の文化交流と相互の発展を目指したものだが、日本側にとっては、展覧会のタイトルどうり「京都工芸の精華」を知ってもらうことであり、その目的は十分達せられたといえよう。
    ベトナムのマスコミは、開会日の午前中から漸次取材に訪れ、当日夕に国営放送Voice of Vietnam TVのニュース番組で放映され、12日の朝刊ではベトナム共産党機関紙「Nhân Dân」(ニャザン=民衆)、労働組合機関紙「Lao Dong」(ラオドン=労働)の2大紙はじめ「tin tuc」「Yên Bái」など計6紙で報道され、いずれもデジタル版に収録されている(添付図版参照。一部は日本でも検索可能、英語版もある。しかし大半は既にネットから削除されているようだ)。先発組はTV放映を見ることもできず、新聞を入手する事も出来なかった。TVは開会式の行われている時間帯の放映だったらしく、新聞は捜す余裕がなかったためである(入手の手段にも暗かった)。放映された事も、各紙に載っている事も、帰国してから在住邦人により知らされたが、このように多数の報道機関で紹介されるのは全く異例の事だそうで、それだけ関心が高い事が伺われる。開会式で参加者から聞かれた感想は「我々が想像もできなかったもの」「とても参考になった」「完全に芸術だ」と言うような賛辞だった(英語での会話だったが、ベトナム人は以外に英語を自在に話せる人が少なく、彼らの真意をどれだけ十分に表現しているかは不明といわざるを得ない)。このような反響を呼んだだけでも、展覧会を開催したことは、手前味噌でなく成功だったと言えよう。
ちなみにベトナムでは”工芸”もfine-artsの範疇に含まれているが、個々の作品、特に実用器具の形態の物で、過去の作品はともかく、現代の作品がartと認められているようなものは極めて少なく、それゆえに日本を参考にして自分の作品を芸術として高い評価を得るようにしたいという意欲が伺え、そのため我々との交流を望む意欲は、非常に強いと思われた。しかし、交流は双方の“思惑”が一致しない事には成立しない。常に双方があらゆる手段を使って交信・連絡・情報提供し合い、条件を調整すべきだが、できれば仲介できる機関が欲しい。
    「工芸」と言う言葉は、適当な外国訳語がない。英語ではdecorative artとかcraft artとかいう語などが使われているが、概念規定は出来ていないようだ。日本でも同様だが「工芸」というと、ホイジンガー’(Johan Huizinga, 1872~1945)が、名著『中世の秋』で、ルネッサンスと中世の文化が区分しにくいものであるのに、一般では「ルネッサンス」というと最早消す事の出来ない確固としたイメージが出来上がっているというのと同じく、定義は出来なくても”ある範疇”のものがイメージされる。そのイメージを伝えるには、敢えてKOGEIと言う語を使い、パリ展から使っているが、今回は各マスコミ機関もヴェトナム語版でこそmy nghe(美術、yとeにはそれぞれアクセント記号がつく)などと表記していても、英語版では全てKOGEIであり、日本でイメージされている「工芸」のトップレベルのものがKOGEIであるというイメージを世界の人に定着させ、理解を深め愛着を持ってもらうのに一歩前進したといえよう。最近、東京国立近代美術館でも「工芸からKOGEIへ」と言う企画展を開催しているが、そこでKOGEIとされているものは”とりあえず”いわゆる伝統工芸で、KOGEIを世界共通語にしようとするなら、KOGEIに対するより広い視野が必要だろう。
    とにかく苦労の多い展覧会だったが、各同人の努力と共に、関係した多くの方々のご好意・ご支援により成功させることができた。改めて深い感謝する次第である。
   なお、徳力の作品「Message」(ガラス)は、縁あって在ベトナム日本大使館公邸に収蔵される事になった。また集団の発起人でもある漆芸家・鈴木雅也はベトナム展に先立つ中信展開催中の10月7日に死去した。81歳。謹んで哀悼の意を表します。
    また、代表は2014年1月19日の全体会議で、今井政之の辞意により村山明に交代することが承認された。
(文中全て敬称略 文責=事務局)